明治時代の中頃まで、新世界界隈はまだ田畑の点在する場所でした。1885年(明治18年)に南海鉄道、その3年後に大阪鉄道が開通すると、民間業者が南大阪(*1)の開発に着手し、遊技場(*2)が設置されるようになりました。こうした中、1889年(明治22年)に「今宮商業倶楽部」(「偕楽園商業倶楽部」と呼ばれた)という大規模な娯楽施設が出来ました。これは、今で言うメーカーの常設見本市のようなものだったそうです。この施設の土地が大阪市に売却され、1903年(明治36年)に開催された『第五回
内国勧業博覧会』(*3)の用地の一部となったのです。この博覧会は、国内外から集まった当時の最新技術を用いた製品や遊具を展示し、わずか5ヶ月の間に530万人が訪れる大成功を収めました。その跡地が、南大阪の都市開発計画に基づき再開発され、1909年(明治42年)に天王寺公園がまず開園しました。そして、残った土地が、現在の新世界となるのです。
*1 南大阪
フランス留学中に、映画の父リュミエール兄弟と友好を深めた京都の実業家 稲畑勝太郎が、1897年2月15〜28日に、大阪ナンバの南地演舞場(現在建替え中の南街会館)にて、日本で始めてシネマトグラフを公開しました。エジソンの発明したキネマスコープは、前年に神戸で初公開されています。
*2 遊技場
『今宮臥龍館』という施設は、ローラーコースター、つまりジェットコースターが目玉だったそう。もちろん日本初。
*3 『第五回
内国勧業博覧会』
第5回内国勧業博覧会が行われたときに、そのなかに「不思議館」というパビリオンがあり、そこでカーマンセラ嬢というアメリカ人のダンサーが、薄い衣装をまとい、後ろから電気の光に照らされて踊る、という当時としてはかなり色っぽいショウをしていました。当時1900年初頭に、コンテンポラリーダンスの隠れた生みの親と言われているロイ・フラーというアーティストがいて、その人がサーペイン・ダンスという、布を使った色っぽいダンスをやっていたのです。その2年後の博覧会では、もうそれを取り入れたダンスがここ新世界で披露されていたのです。
新世界は、北半分はパリをモデルにし、1912年(明治45年)に完成・開業した『通天閣』を起点に放射状に街路がのびる形で造成され、また南半分には、ニューヨークの「コニーアイランド」をモデルにした都市型遊園地『ルナパーク』(*4)が造られました。通天閣からルナパークをつなぐロープウェイ(*5)もあり、今で言うテーマパークのような街とだったのですが、その後、先駆的な商人たちの手によって街の姿はどんどん変容していきます。ルナパークは、演芸・芝居小屋や(活動写真の)映画館が増え、劇場街として改造されていき、ますます活気を帯びていきます。1913年(大正2年)からの第2期工事では、ドイツのバーデンバーデンをモデルにした「噴水温泉」が建てられたりもしました。また、1915年(大正4年)には天王寺動物園も開業し、ますますにぎわいましたが、1923年(大正12年)にはルナパークが、開業からわずか11年で閉園してしまいます。この年は関東大震災のあった年でもあります。その後、日本は第二次世界大戦に突入し、1945年(昭和20年)3月の大阪大空襲では、新世界一帯も跡形もなく焼け落ちてしまいます。
*4 ルナパーク
ちなみにルナパークには、日本で初めてのメリーゴーラウンドがありました。ウォターシュートやサークリングウエーブという絶叫マシンも
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ルナパーク(『写真で見る大阪市100年』より) |
*5 ロープウェイ
[Breaker Project]「ウクレレと歌留多で語る新世界」で、新世界のお店へインタビューを行った美術作家
伊達伸明さん。この当時の新世界の地図を見たとき、「ウクレレの構造に似ている!」と驚いたそう。放射状の街路はウクレレの表板ウラの補強材と同じ並びだし、ロープウェイは弦、そしてジャンジャン町はネック部分。「新世界は弦楽器の街かも」と伊達さん。現在も、楽器店やジャズバーがあったり、CDレーベルオーナーやジャズバンドのバンマスなど、音楽に関わる住人が多いのはそのせい?
1945年の終戦の後、新世界も復興の道を歩み始めます。特に、映画が大ブームとなってからは、多くの映画館が建てられ、映画の街としてにぎわいを取り戻していきました。また戦後の建築ブームによる、日雇い建設作業員の必要から釜ヶ崎が発生(*6)、その人々の一日の疲れを癒すのに、安くて気さくな町として、また人気を集めていきます。と、同時に通天閣の再建にも着手し、1956年(昭和31年)には、二代目通天閣が開業します。
*6 釜ヶ崎が発生
現在では西成の安価な宿は、バックパッカーが多く利用しているそう。SAPにやってくるアーティストもよく利用しています。レジデンスなどの長期滞在にはもってこいです。
その後、テレビの普及により映画館から人々の足が遠のき、新世界も映画の街ではなくなっていきます。1970年(昭和45年)の『日本万国博覧会』では一時人気を取り戻しますが、その後は低迷します。しかし平成に入り、1996年(平成8年)10月から翌年4月まで放送されたNHK連続テレビ小説「ふたりっ子」で新世界の街が舞台になり、また注目を浴び始めます。そして、1997年(平成9年)7月に「フェスティバルゲート」(*7)と「スパワールド」が開業し、現在に至ります。
*7 フェスティバルゲート
そして、2002年(平成14年)10月に、SAPが事業をスタートしました。 |